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スキルアップカレッジ

量子暗号・PQC・QKD——Shor が破り、格子暗号が守る

レッスン7:量子暗号PQCQKD——Shor が破り、格子暗号が守る

このレッスンで学ぶこと

  • Shor アルゴリズムRSA/ECC を破る原理側を説明できる
  • PQC(耐量子暗号)の概要と、既刊クラウド系入門コースとの棲み分けを整理できる
  • QKD(Quantum Key Distribution、量子鍵配送)の BB84 プロトコル 1984 を語れる
  • 中国「墨子号」QKD 衛星 2016 年 8 月の位置づけを俯瞰できる
  • 「Harvest Now, Decrypt Later」攻撃モデルへの企業対応を判断できる

前のレッスンでは、量子アルゴリズム応用の 3 領域を扱いました。このレッスンでは、量子コンピュータが暗号世界にもたらす破壊と創造を扱います。中核メッセージ 5「Shor が破る、格子暗号が守る——暗号世界の 30 年の再設計」の中身です。

現代暗号の 2 大パラダイム

現代のインターネット通信で使われる暗号は、2 つのパラダイムに分けられます。

  • 公開鍵暗号(RSA、ECC):素因数分解や離散対数問題の計算困難性に依存。鍵交換・電子署名で使われる
  • 共通鍵暗号(AES など):ブロック暗号や擬似乱数生成器の秘匿性に依存。データの暗号化で使われる

Shor アルゴリズムは公開鍵暗号を、Grover アルゴリズムは共通鍵暗号を、それぞれ異なる方向から脅かします。

Shor が RSA/ECC を破る原理

Shor アルゴリズム(1994 年、Peter Shor)は、大きな整数の素因数分解を古典より指数関数的に高速に解けます。

RSA の脆弱性

RSA 暗号は「大きな合成数(例:2048 ビット)を素因数分解するのは、古典計算では現実的な時間で不可能」という前提に依存します。しかし、Shor アルゴリズムが実用的な FTQC で動けば、この前提が崩れます。RSA-2048 を Shor で破るには、数百万 qubit の FTQC が必要と推定されますが、これが実現した時点で「現在の RSA 暗号は破られる」ことになります。

ECC(楕円曲線暗号)の脆弱性

ECC は離散対数問題の困難性に依存する暗号で、Shor アルゴリズムの拡張版で破れます。ECC は RSA より短い鍵長で同等のセキュリティを提供するため、モバイル・IoT でよく使われますが、量子時代には同様に危険になります。

AES(共通鍵暗号)への影響——限定的

AES などの共通鍵暗号は、Grover アルゴリズムで √N 加速される程度で、鍵長を 2 倍にすれば対策できる範囲です。AES-256 は Grover で 128 ビット相当のセキュリティに落ちますが、依然として実用的です。「共通鍵暗号は量子時代でも生き残る」というのが一般的な理解です。

PQC(Post-Quantum Cryptography、耐量子暗号)——概要

PQC は、量子コンピュータでも破れないと期待される暗号技術の総称です。「量子コンピュータで動く暗号」ではなく「古典コンピュータで動くが量子コンピュータでも破れない暗号」です。

PQC の主要方式

  • 格子暗号(Lattice-based):高次元格子上の困難問題に依存、現在最有力
  • 符号ベース暗号(Code-based):誤り訂正符号の困難問題に依存
  • 多変数多項式暗号(Multivariate):多変数多項式方程式の解法困難性に依存
  • ハッシュベース暗号(Hash-based):ハッシュ関数の一方向性に依存(電子署名専用)

NIST PQC 標準化——2024 年 8 月 13 日確定

NIST(米国国立標準技術研究所)は 2016 年に PQC 標準化プロセスを開始し、2024 年 8 月 13 日に最初の 3 標準を確定しました。

  • FIPS 203(ML-KEM/CRYSTALS-Kyber):鍵カプセル化メカニズム(格子暗号)
  • FIPS 204(ML-DSA/CRYSTALS-Dilithium):電子署名(格子暗号)
  • FIPS 205(SLH-DSA/SPHINCS+):電子署名(ハッシュベース)

これら 3 標準は、今後の TLS、電子署名、企業システムでの PQC 移行の基盤になります。

📝 補足 PQC の規制対応・NIST 標準実装詳細・Harvest Now Decrypt Later の企業対応(TLS 対応スケジュール、SBOM、クラウド事業者との連携)は、既刊のクラウド系入門コースで扱っています。本コースは「Shor がなぜ RSA を破るか」の原理側に焦点を絞り、実装対応の詳細は既刊コースを参照してください。

QKD(Quantum Key Distribution、量子鍵配送)

QKD は「暗号の伝送そのものを量子力学の原理で保護する」技術で、PQC とは全く別のアプローチです。PQC は古典コンピュータで動く数学的暗号なのに対し、QKD は量子的な物理現象(no-cloning 定理、測定の破壊性)を利用して安全な鍵配送を実現します。

BB84 プロトコル——1984 年

Charles Bennett(IBM)と Gilles Brassard(モントリオール大学)が 1984 年に提唱した BB84 は、最も有名で最初の QKD プロトコルです。以下の仕組みで安全な鍵配送を実現します。

  1. 送信者 Alice が qubit を |0⟩、|1⟩、|+⟩、|-⟩ のいずれかの状態でランダムに送信
  2. 受信者 Bob がランダムに選んだ基底で測定
  3. Alice と Bob が測定基底を公開し、一致した部分だけを鍵として使う
  4. 盗聴者 Eve が途中で測定すると、no-cloning 定理と測定の破壊性でエラー率が上がり、検出できる

QKD の安全性は「盗聴すれば検出される」ことに基づき、数学的な計算困難性に依存しない絶対的な安全性を目指します。

実用化の現状

QKD は物理的なファイバーや衛星通信でのみ動作し、以下の制約があります。

  • 距離の限界:地上ファイバーで数百 km 程度、衛星経由で長距離化
  • 高コスト:専用機器と光ファイバーが必要
  • 限定的な用途:政府・防衛・大手金融機関の一部で実装

中国「墨子号」QKD 衛星——2016 年 8 月

中国科学技術大学の Pan Jian-Wei が主導したプロジェクトで、2016 年 8 月に「墨子号」と呼ばれる QKD 衛星が打ち上げられました。2017 年に、地上局と衛星間で 1,200 km 級の QKD に成功し、「衛星経由の量子暗号通信」を初めて実証しました。

  • 中国は「量子暗号通信の商用化」で先行、量子通信の国家戦略プロジェクトを推進
  • 米国、欧州、日本も QKD の研究開発を加速

日本の量子未来社会ビジョン

内閣府「量子未来社会ビジョン」(2022 年 4 月 22 日)に基づき、日本国内でも量子通信・量子コンピューティング・量子計測の 3 分野で研究開発が推進されています。QKD の実用化は、まず政府機密通信・金融機関などで段階的に進みつつあります。

Harvest Now, Decrypt Later——今すべきこと

「Harvest Now, Decrypt Later(今収穫、あとで復号)」は、攻撃者が今の RSA/ECC 暗号化通信を盗聴・保管し、将来 Shor が実用化した時点で復号する攻撃モデルです。長期的な機密性が必要な情報を扱う組織は、以下の対応を今から始める必要があります。

企業対応 3 ステップ

  1. 暗号インベントリの作成:自社システムで使われている暗号方式を洗い出し(RSA、ECC、AES など)
  2. 移行優先度の決定:長期機密性が必要なデータから、PQC への移行を計画
  3. ハイブリッド運用への移行:既存暗号 + PQC の併用で段階的に切り替え

タイムライン

  • 2024-2027:主要 IT 企業・クラウド事業者の PQC 対応が段階的に完了
  • 2027-2030:企業システムの PQC 移行本格化
  • 2030+:FTQC 実用化のシナリオで RSA/ECC の全面移行

⚠️ 注意 企業がやるべきなのは「量子コンピュータの実現時期を予測する」ことではなく「実現時期に備えて今から準備を始める」ことです。PQC 移行は数年〜十数年の作業になるため、遅らせるほどリスクが増します。

講師の現場メモ——「PQC 移行のパイロットで社内の理解を得るのに 1 年半かかった話」

私が独立後に伴走した中堅金融機関で、PQC 移行のパイロットプロジェクトを立ち上げました。技術的な計画は 3 か月でまとまりましたが、社内の理解を得るのに 1 年半かかりました。理由は、①「量子コンピュータはまだ先の話」という認識、②「今の RSA で問題ないなら急ぐ必要はない」という予算判断、③「移行コストが高すぎる」という現場の反発——の 3 点でした。私たちは「Harvest Now Decrypt Later」の脅威を、実際の政府機関の公式声明や大手 IT 企業の PQC 対応事例を並べて、経営層に段階的に説明し続けました。PQC 移行は技術問題ではなく、経営判断の問題——これを 3 年〜5 年計画として位置づけ、CIO・CISO レベルで承認を取ることが、企業導入の第一歩です。

次のレッスンの予告

次のレッスンでは、本コース最後として、業種別ユースケース(金融・製薬・物流・素材)と修了後の学び方を扱います。IBM Qiskit Textbook、Microsoft Quantum Katas、国内量子技術コミュニティ——修了後に量子コンピューティングを学び続けるための情報源を整理します。

確認クイズ

理解の定着のために、6 問のクイズを解いてみてください。